コントラバスとの出会い(中学編)

私の出身中学である霧丘中学校は、当時レー部や陸上部、テニス部など九州大会常連・全国大会にも出場するほど部活動が盛んで、吹奏楽部も盛んな部のなかの1つで毎年九州大会に出場しており、全国大会を目指していました。私の中学校は(現在はどういう方針か知らないんですが)ゴールデン・ウィーク後の仮入部期間が終了した時点でパート決めをしてました。それまでの間、1年生はひたすらリコーダーでパッヘルベルのカノンを練習してました。もう、先輩が怖いのなんの。服装のこととか挨拶のこととかよく注意されました。「ミーティング」という名の後輩いびりが伝統的にあり、頻繁に行われました。うちらも2年になったら、1年の時の鬱憤晴らしで後輩にやってた。いやな伝統だ。(大学のサークルで友人達と昔話してると、この頃はみんな同じようなことを経験してるみたいでした。)
さあいよいよパート決めの日。人気の楽器は(フルートとかトランペットのような花形楽器)早々と決まっていきました。私は前にも書いたように、パーカッションがしたいと決めてたんですが、なんとパーカッションの枠は1人で、3人希望者がいたのです。その3人だけ、まだどこもパートが決まっていませんでした。しかも、3人とも決意が固い。さあ、困った。
顧問の土谷先生は、こういうときは必ず初心者でもオーディションでパート決めをします。パーカッション希望者3人は一人ずつ先生に呼ばれました。私は先生から突然クラッシュシンバルを渡されると、「シンバルで悲しい音を出せ。」と言われました。か、悲しい音??訳もわからず叩きました。
結果は・・・・、落ちました。残った楽器はコントラバスとバリトン・サックス。私は何も考えずに弦バスを選んでました。
こうして私は弦バスを手にしたんです。この頃は、いつかパートを変わろうと思っていました。

先生はオーディションの講評で、パーカッションは表情の豊かさ・表現の上手さが命。だから一番悲しい顔をした子をパーカッションに決めたとおっしゃいました。「表情?表情で私はこの人に負けたのか?」と、(言い方が悪いですけど)このときすっごく悔しかったのを覚えています。
「じゃあ、表現の仕方で1番になってやる〜。」負けず嫌いの私はこの時固く決心したのでありました。

ト音記号しか読んだことのなかった私は、最初にヘ音記号の読み方から入りました。そしてポジションのところに傷が入ったボロボロの弦の弦バス毛が黄ばんで毛が薄い弓とを持たされ(当時は先生は弦バスのことをまったく理解してなかったために、学校の楽器2台ともメンテナンスを全くしてなかった。( ; 0 ; ) )ひたすらロングトーンと教則本とピッチカートの練習。何回も血豆が破れ、弦が血だらけになったっけ。コンクールが近づくと先輩から課題曲・自由曲(デュカスの「魔法使いの弟子」)の譜面を渡され、今度は曲の練習ばかりしてたり。1年生のコンクールメンバー5人の枠に入るためのオーディションに受かったとき、泣いて喜んだり。全国大会を目指してたんですが、九州大会で全国の切符を逃して1年生ながら悔し涙を流したり。

3年生の先輩が引退した後、バンドジャーナルや(もう廃刊してしまったけど)バンドピープルのレッスンのページを読んだり、N響アワーを見たり、コンサートに積極的に行ったりして研究しました。先生もこの頃くらいから弦バスに理解を示してくれて、魂柱の修正(なんと私が使っていた楽器は魂柱が曲がっていた!!)弦の張り替え・弓毛の張替え・駒の作り直し・バス椅子の購入と、大幅に弦バスを弾く環境が良くなりました。
表現の仕方で1番になってやる〜。」この決意が強くて、先輩の引退後、中学・高校と続くひたすら動いて表現するスタイルはこの時身に付きました。
2年生以降、ひたすら動いて表現するスタイルで北九州ではちょっとした有名人になっちゃってました。後輩(妹)も私のスタイルを真似してたため、私達の知らないところで「踊る弦バス姉妹」なぞ呼ばれてたんだって。/( ^_^;)

中学校の部活の顧問だった、土谷先生。私にとって人生の恩師といっても過言ではない偉大な方です。私は音楽について今知っていることの大半を先生から影響を受け、音楽以外のことでもたくさんのことを学びました。本当に先生には感謝感謝・・。先生に出会わなかったら、きっと今の私はいなかっただろうな。
当時先生のお宅と私の自宅が近かったので、よく部活で遅くまで練習してたら車で送って頂いてました。車の中で「これはいいぞー。」といろんな曲を聞かせてくれました。
私が「褒められると伸びる性格」ということを理解していて、なんか人より多く褒められてたような気がします。たま〜に「おいおい、それは褒め殺しじゃないの?」と思うときがあって聞いてて恥ずかしかったけど。
先生はとてもユニークな指導法を発明する名人でした。たくさんエピソードがあるうちの2つを紹介。
@「魔法使いの弟子」を振るとき、傘の骨を手の平サイズに切って指揮棒にしていました。なんでも「これくらい短いと本物の魔法使いになったみたいだから」だそうです。だ、打点が見えないよ〜・・。
A最初のお子さんが生まれたとき、突然赤ちゃんのラッパを5,6本持ってきて「腹式呼吸矯正ラッパ」として管楽器の子達に吹かしていました。赤ちゃん用のラッパは腹式呼吸で吹くと「プー」という音がしなくなり、息の音のみになります。先生は息子さんのラッパを吹いたとき閃き、何本も買い込んだんだそうです。

先生が作り出すサウンドが一番好きです。特に木管楽器中心で組み立てていくサウンドが好き。とってもやわらかくて。先生の指揮も大好き。もう一度先生の指揮で弾いてみたいな。
(余談:大学3年の時学生指揮を経験したんです。そのとき指揮の先生から「一番好きな指揮者は?」と聞かれた時、迷わず土谷先生と答えたくらい)

中学校時代は今考えると結構難曲をやってたんです。2年のときのコンクールはサン=サーンスの「オルガン付」終楽章を、吹奏楽アレンジとはいえ全くオケの譜面と同じ楽譜で、速いパッセージに悪戦苦闘しました。あと、3年のコンクールは「火の鳥」やったし、ホルストの「木星」とかワーグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」とか「威風堂々」とかも定演でやったり。全国大会目指して朝は日が昇る前、4時に集合して合奏・夜は遅い時には9時ごろまで練習したり。(結局は九州大会止まりでしたが)中学校の頃の経験はとっても辛かったけど、楽しかったり嬉しかったことが辛かったことより印象が強かった。だから引退した頃には、高校に行っても楽器は続けようと思ってました。