まさか10年以上も携わるとは・・・・。
こうなりゃ生涯現役!!
吹奏楽との出会い
私が吹奏楽に触れたのは小学校5年生のときでした。
それまでは音楽はそこまで好きな人ではなかった。普通に歌を歌ったりたてぶえを吹いたり。
でも、小学校5年の3月、地元の中学校が九州大会出場した記念の特別演奏会があった。(後に「定期演奏会」になりましたけど)たまたま同級生のお姉ちゃんがパーカッションをしてて、無料だったし、まあ、見に行こうかという事で行ったんですよ。
そのときのプログラムが、楽器紹介や普段の部活の風景の再現、素人でも1度は耳にしたことがある曲と、初めて吹奏楽を耳にする私にとってとても親切な内容でした。サウンドも、当時小学生で素人だった私でも綺麗で包み込まれる感じで。
そういうことで、この時点から「部活はブラスバンド!!」と決めてたんです。
それから中学校の体育祭に吹奏楽のマーチの演奏を聞くために行ってました。
そして1年後の中学校にあがる寸前の3月、強い憧れを胸に、「第2回定期演奏会」を聴きに行きました。
プログラムは1部が1・2年生のみの演奏と吹奏楽のオリジナル、2部がポップスステージ、3部がコンクールの課題曲・自由曲(この年の自由曲はローマの祭のチェルチェンセスと主顕祭)でした。
2部が私にとってとても刺激的でした。ドラムスに目が釘付けでした。このときにドラムが叩きたいばっかりに「絶対打楽器したい!!」と思いました。
(1・3部はほとんど覚えていません。クラッシックの曲は分からなかったんで、興味なしだったんです・・・。)
こんなきっかけで私は中学校入学約1週間後、吹奏楽部の見学・仮入部を済ませました。
コントラバスとの出会い(中学編)
私の出身中学である霧丘中学校は、バレー部や陸上部、テニス部など九州大会常連・全国大会にも出場するほど部活動が盛んで、吹奏楽部も盛んな部のなかの1つで毎年九州大会に出場しており、全国大会を目指していました。私の中学校は(現在はどういう方針か知らないんですが)ゴールデン・ウィーク後の仮入部期間が終了した時点でパート決めをしてました。それまでの間、1年生はひたすらリコーダーでパッヘルベルのカノンを練習してました。もう、先輩が怖いのなんの。服装のこととか挨拶のこととかよく注意されました。「ミーティング」という名の後輩いびりが伝統的にあり、頻繁に行われました。うちらも2年になったら、1年の時の鬱憤晴らしで後輩にやってた。いやな伝統だ。(大学のサークルで友人達と昔話してると、この頃はみんな同じようなことを経験してるみたいでした。)
さあいよいよパート決めの日。人気の楽器は(フルートとかトランペットのような花形楽器)早々と決まっていきました。私は前にも書いたように、パーカッションがしたいと決めてたんですが、なんとパーカッションの枠は1人で、3人希望者がいたのです。その3人だけ、まだどこもパートが決まっていませんでした。しかも、3人とも決意が固い。さあ、困った。
顧問の土谷先生は、こういうときは必ず初心者でもオーディションでパート決めをします。パーカッション希望者3人は一人ずつ先生に呼ばれました。私は先生から突然クラッシュシンバルを渡されると、「シンバルで悲しい音を出せ。」と言われました。か、悲しい音??訳もわからず叩きました。
結果は・・・・、落ちました。残った楽器はコントラバスとバリトン・サックス。私は何も考えずに弦バスを選んでました。
こうして私は弦バスを手にしたんです。この頃は、いつかパートを変わろうと思っていました。
先生はオーディションの講評で、パーカッションは表情の豊かさ・表現の上手さが命。だから一番悲しい顔をした子をパーカッションに決めたとおっしゃいました。「表情?表情で私はこの人に負けたのか?」と、(言い方が悪いですけど)このときすっごく悔しかったのを覚えています。
「じゃあ、表現の仕方で1番になってやる〜。」負けず嫌いの私はこの時固く決心したのでありました。
ト音記号しか読んだことのなかった私は、最初にヘ音記号の読み方から入りました。そしてポジションのところに傷が入ったボロボロの弦の弦バスと毛が黄ばんで毛が薄い弓とを持たされ(当時は先生は弦バスのことをまったく理解してなかったために、学校の楽器2台ともメンテナンスを全くしてなかった。( ; 0 ; ) )ひたすらロングトーンと教則本とピッチカートの練習。何回も血豆が破れ、弦が血だらけになったっけ。コンクールが近づくと先輩から課題曲・自由曲(デュカスの「魔法使いの弟子」)の譜面を渡され、今度は曲の練習ばかりしてたり。1年生のコンクールメンバー5人の枠に入るためのオーディションに受かったとき、泣いて喜んだり。全国大会を目指してたんですが、九州大会で全国の切符を逃して1年生ながら悔し涙を流したり。
3年生の先輩が引退した後、バンドジャーナルや(もう廃刊してしまったけど)バンドピープルのレッスンのページを読んだり、N響アワーを見たり、コンサートに積極的に行ったりして研究しました。先生もこの頃くらいから弦バスに理解を示してくれて、魂柱の修正(なんと私が使っていた楽器は魂柱が曲がっていた!!)弦の張り替え・弓毛の張替え・駒の作り直し・バス椅子の購入と、大幅に弦バスを弾く環境が良くなりました。
「表現の仕方で1番になってやる〜。」この決意が強くて、先輩の引退後、中学・高校と続くひたすら動いて表現するスタイルはこの時身に付きました。
2年生以降、ひたすら動いて表現するスタイルで北九州ではちょっとした有名人になっちゃってました。後輩(妹)も私のスタイルを真似してたため、私達の知らないところで「踊る弦バス姉妹」なぞ呼ばれてたんだって。/( ^_^;)
中学校の部活の顧問だった、土谷先生。私にとって人生の恩師といっても過言ではない偉大な方です。私は音楽について今知っていることの大半を先生から影響を受け、音楽以外のことでもたくさんのことを学びました。本当に先生には感謝感謝・・。先生に出会わなかったら、きっと今の私はいなかっただろうな。
当時先生のお宅と私の自宅が近かったので、よく部活で遅くまで練習してたら車で送って頂いてました。車の中で「これはいいぞー。」といろんな曲を聞かせてくれました。
私が「褒められると伸びる性格」ということを理解していて、なんか人より多く褒められてたような気がします。たま〜に「おいおい、それは褒め殺しじゃないの?」と思うときがあって聞いてて恥ずかしかったけど。
先生はとてもユニークな指導法を発明する名人でした。たくさんエピソードがあるうちの2つを紹介。
@「魔法使いの弟子」を振るとき、傘の骨を手の平サイズに切って指揮棒にしていました。なんでも「これくらい短いと本物の魔法使いになったみたいだから」だそうです。だ、打点が見えないよ〜・・。
A最初のお子さんが生まれたとき、突然赤ちゃんのラッパを5,6本持ってきて「腹式呼吸矯正ラッパ」として管楽器の子達に吹かしていました。赤ちゃん用のラッパは腹式呼吸で吹くと「プー」という音がしなくなり、息の音のみになります。先生は息子さんのラッパを吹いたとき閃き、何本も買い込んだんだそうです。
先生が作り出すサウンドが一番好きです。特に木管楽器中心で組み立てていくサウンドが好き。とってもやわらかくて。先生の指揮も大好き。もう一度先生の指揮で弾いてみたいな。
(余談:大学3年の時学生指揮を経験したんです。そのとき指揮の先生から「一番好きな指揮者は?」と聞かれた時、迷わず土谷先生と答えたくらい)
中学校時代は今考えると結構難曲をやってたんです。2年のときのコンクールはサン=サーンスの「オルガン付」終楽章を、吹奏楽アレンジとはいえ全くオケの譜面と同じ楽譜で、速いパッセージに悪戦苦闘しました。あと、3年のコンクールは「火の鳥」やったし、ホルストの「木星」とかワーグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」とか「威風堂々」とかも定演でやったり。全国大会目指して朝は日が昇る前、4時に集合して合奏・夜は遅い時には9時ごろまで練習したり。(結局は九州大会止まりでしたが)中学校の頃の経験はとっても辛かったけど、楽しかったり嬉しかったことが辛かったことより印象が強かった。だから引退した頃には、高校に行っても楽器は続けようと思ってました。
トラブルだらけ??(高校編)
高校は吹奏楽を続ける、と思っていましたから、志望校はやっぱりコンクールでいい成績をあげているところが良かった。そして第一志望に決めた公立高校は、学区内で1番偏差値が高い進学校、小倉高校。コンクールでもいい成績を修めている。しかし、当時の私の成績では偏差値が4から5足りなかった。当時進学塾の塾長だった父から何度も反対されました。それでも私は楽器をこの高校でやりたいという気持ちが強かった。こうなりゃ強行突破だー!!父親の反対を押し切って小倉高校の受験志願届をもらって記入。そして、晴れて高校合格したんです。
小倉高校は部室というものがありません。体育館と講堂が一緒になっているのが普通ですが、私の高校は体育館と講堂が別に建てられていて、吹奏楽部は講堂が部室みたいなものでした。全部の楽器が講堂で練習するので、なかなか自分の音が聞こえなくって大変でした。だからステージの暗幕の裏で練習をやったりステージの上手(かみて)でドアを締め切ってやったりして、必死で自分の音を聞ける環境を作ってましたね〜。
練習の後よく先輩達と一緒にボウリングとかカラオケとか制服のまま行ってました。高校の時にカラオケ・ボウリングの腕を磨きました?
何故題名が「トラブルだらけ??」というのか。高校時代色々ヤラカシてしまったんです。
@「食中毒なのに・・・・」事件
高校1年生の支部予選の日のこと。学校の夏講習を大会ということで届を出して早退、講堂で練習。その後昼食を取ったんです。
そして会場入り。その時私の体調に異変が・・。とてつもない悪寒と吐き気。どうしようもないので売店でオレンジジュースを飲んで落ち着かせようと思ったが、逆効果。5分おきにトイレに駆け込む始末。顔はみるみるうちに土色に変化してました。
時間は流れ、いよいよ本番。本番前に先輩に体調悪いのでよろしくお願いしますと言ってステージに上がりました。
さあ、課題曲が始まった。(この年の課題曲は「マーチ・エープリル・メイ」)好調にファンファーレがなった後、悲劇が。
「パチーン!!」何かがはじける音が隣でしました。チラッと横を見ると、先輩の弓の毛が全て抜け落ちているではありませんか!!先輩はピッチカートしかできなくなってしまいました。
さあ大変だ。体調が悪いとか言ってる場合ではない。気を振絞って演奏。そして家で死んだように寝ました。
結果は何とか県大会出場。そして九州大会までこの年は行きました。
この事件がきっかけで、コンクールには必ず予備の弓を持参していくようになりました。
さてさて、悪寒と吐き気の原因は・・・・弁当に入っていた「ちくわキュウリ」でした。
ただの食あたり・・・。
A「弦バスの弦なのに〜」事件
高校2年生の時の課題曲。この年の前からから課題曲がマーチと6分以上の長い曲とが交互になって、この年は長い曲でした。私達の学校が選んだ課題曲は「饗応夫人」。
この曲で私ははじめて「バルトーク・ピッチカート」を経験します。(バルトーク・ピッチカートは、ピッチカートをする際に弦を指板にぶつけて打撃音も出す奏法のこと。)
OBの先輩(某S日フィルのフルート奏者でいらっしゃる)からコンクール前は「ピッチカートの音がせん」「指板の音しかせんからやり直し」とかなり注意されました。負けず嫌いのいわやんさんですから、これでもか、これでもかとバルトーク・ピッチカートの研究をしました。
コンクールが終わり、2学期の始業式の日。始業式など式典には必ず校歌を演奏するのですがそのとき信じられないことが起きました。
普通にピッチカートしていただけなのに、弦がプツンと切れてしまったんです。しかもG線とD線と2本も!!あんなに太い弦バスの弦も夏の練習で切れやすくなっちゃったのかも。
皆さんもバルトーク・ピッチカートのやり過ぎには注意しましょう。
他にはネックにヒビが入っているのをコンクール1週間前に気づいて慌てて修理に出したりとか、松脂を溶かしてしまって使い物にならなくしてしまったことも多々あり。本当に楽器に関して災難だらけでした。(半分は私に責任があるのですが。)
高校時代の顧問(うちの高校では「部長」と呼ばれてますが)の木村先生は、いい先生です。生徒の言葉をしっかり受け止めてくれます。
先生は大学時代、コントラバスを経験していたということもあり、私のやることに理解を示してくれました。
先生からコントラバスのレッスンを受けたことがないのは心残り。
「駒があってないです」「この弦じゃいい音は出せません」「弓の毛、松脂がつかなくなったので交換してください」「バス椅子が欲しいです」
入学したての生意気な私の注文を、先生は即座に修理・購入して私の演奏しやすい環境に変わりました。
指揮の方は、緊張して指揮振る手がプルプル震える、チャーミングなところもありました。(今はステージ慣れして立派な指揮をふります。)
高校時代、合奏をいろんな先生方にレッスンしていただきました。
高1のときの課題曲4の作曲家・矢部政男さんでしょ、指揮者・作曲家・編曲家である淀彰さん、
あと、元福岡工業大学付属高校指揮者で現在ラスベガスで教鞭をとっておられます鈴木先生。
そして後に大変お世話になることになる杉名信二先生。
たくさん表現の方法や技術、音色等学びました。
楽器の方も、高1の冬から積極的に公開レッスン等に行ってました。この頃、コントラバスはすごく魅力的な楽器だと気づき始めました。
「こうなりゃ、生涯現役もいいかな??」と思いました。
弓もこのときお年玉をはたいて買いました。
いよいよ進路を決める時期、もっとこの楽器の事を知りたくなり、知るには音大に行こう!!とまで考えたのですが、
経済的なことを考えて渋々断念。地元の大学に行こうと決意したのでした・・・。
人生の宝(大学編)
高校1年の頃から必ず見に行ってた定期演奏会があります。地元の北九州大学吹奏楽団の定期演奏会。
北九大は私が中3の頃、全国大会まで行ったかなりの実力があるサークルでした。
高2の冬進路を決めるとき音大に行けないんだったら、地元で国公立でせめて楽器が続けられる、しかも実力があるところがいいと考えたら、
当時の私の学力で北九大がいいと思い、第1志望を北九大にしました。
高3の11月、どうせ北九大を受けるんだったら、という担任の言葉で推薦入試に挑戦。
推薦で合格しなかったら合格発表の2日後の北九大の定演には行かない!!と決めて、1ヶ月の間小論文に専念。
なんと、運がいいことに受かりました。もうそのときの喜びようといったら・・・・。
私が合格したその日、杉名さんが吹奏楽団に連絡したらしく、1月からサークルに顔を出すようになりました。
杉名さんは楽団の音楽監督として、全国大会出場した’92年から指導をしていることをそのとき知りました。
うちの楽団の練習場は24時間練習可能な大変恵まれた環境でした。
好きなとき、好きなだけ練習でき、本当に幸せ。
でも、欠点が。高温多湿なのです。夏はあまりの湿気の多さで窓に露が落ちるほど。合奏中気分が悪くなった人が多数。
入った当初、バスパートはテューバが3年3人、2年1人、1年1人の5人。コントラバスは4年2人と私1人。
しかも4年生は定演直前まで練習に来られないため、定演前まではずっとコントラバスは1人でした。
コンクールは心細かったですね。横に誰もいない。音はテューバの音でかき消されてしまう。
定演はバスパート総勢8人が唸りをあげて低音を鳴らしましたっけ。
2年の時、副指揮者になりました。1年の時の学生指揮者だった先輩に影響を受け、立候補したんです。
定演の2部はポップスステージで副指揮者が振リます。夜中鏡を見つめて指揮の練習したり、選曲に悩んだり。
本番はお客さんに結構受けていただいたようで、とても嬉しかったですね。
この年のメインの「シバの女王ベルキス」は、やった私が言うのもなんですが、好演でした。
3年、正指揮者に。団体をまとめ指導する難しさ、言葉づかい、根性、コミュニケーションの難しさ等を指導され叩き込まれました。
定演前の強化合宿のとき、泣きながら指揮の練習を杉名さんとマンツーマンでしたことが今でも鮮烈に思い出されます。
結局その日は夜が明けるまで指揮の練習をし、徹夜。翌日フラフラになりながら合奏に出ました。
何度も同じ代の子達と話し合って、時にはぶつかり合ったりもした。
そんなこんなで自分達の手で作り上げた定期演奏会。演奏はあまり上手って訳ではないけれど、感動できるステージに仕上がったと思います。
メインの「1812年」が終了し、ステージ脇にはけたときフッと力が抜け涙が出そうになりました。
そして、緞帳が下り、「お疲れ様でした。」と声をかけられた瞬間、今まで張り詰めた緊張が解け、涙があふれ出た事を覚えています。
本来4年生は引退なんですが、楽器が好きないわやん、コンクールに出ちゃいました。後輩が1年生で初心者ってこともあったけど。
最後の定演は、悔いを絶対に残したくなかったので、私たち当時4年生は徹底的に音楽面・運営面に口を出し、指導しました。
おかげで自分達の満足できる演奏会になり、打ち上げの時は感動のあまり涙する人が多かったですね。
同じ代の子達は一生大事にしたいと思います。共に苦難や喜びを分かち合った仲だから。友情は人生の宝です。
一人一人とても個性的で一癖あるけど、憎めないんだよね。
もし私が結婚する時は絶対同じ代のみんなを呼びます。そのときはよろしくね。
合同演奏会(大学番外編その1)
1年の夏、九州大学吹奏楽連盟主催の合同演奏会(以下、合演)に初参加しました。
この合演は、1部ポップスステージ、2部ステージマーチングショウ、3部シンフォニックステージという3部構成で、
各部ごとにメンバーを募り、1週間の強化合宿を経て1つのステージを作る、というものです。
1年の時の3部でする曲に、ずっと弾きたかった「白鳥の湖」がありました。
合演は毎年競争倍率が高く、スタッフさん(各部ごとに指揮を振る選抜された学指揮)の意向等でメンバーが決まります。
(スタッフと仲がいいと選ばれやすかったりとか・・。)
だから、1年生はほとんど選ばれません。
でも、「白鳥の湖」をやりたかったし、他大学の人と色々交流を持ちたかった。
いわやんは一か八か、応募用紙を送りましたところ、超ラッキー!!メンバーに選ばれました。
この合演で初めて弦バスが4人の大所帯(吹奏楽では)で演奏することに。
それまで井の中の蛙状態だった私は、他大学のレベルの高いプレイヤー達にかなりの刺激を受けました。
このとき知り合ったコントラバスの男の先輩2人は、連絡を現在でも取り合ってます。
すごく楽器が上手で面白くって、2人とも学生指揮者経験者で音楽の知識も豊富です。私の憧れ。
困った時は最初にその先輩に相談しますね、現在。
1週間の合宿で、人見知りをする私ですが他大学の人とかなり仲良くなりました。
この合演で味を占めた私。それから合演に4年連続3部に出ました。
どの年も楽しくて、感動しましたね。
合演で知り合った先輩・同僚・後輩は宝物です。4年間一緒に出た友人もいる。
今でも手紙とかやり取りしてるし、演奏会であったりもします。
4年の時超難関曲「華麗なる舞曲」をやリました。
速いパッセージのオンパレード。摩擦で左手の指をやけどしかけたりもしました。
この年は例年より4年生の数が多く、知り合いが多数参加していて練習も休憩時間も毎日が楽しかったね。
そしてコントラバスが5人と大所帯をまとめるパートリーダーになったということもあって、
終了後は感動のあまり泣いちゃいました。
去年の夏、初めて見る側で合演に触れました。
懐かしかった。一昨年は私もあんなふうに必死になって難曲に取り組んでたんだな、て。
合演は、今になって思えば多少お金がかかるけども、大学でしかできない貴重な経験。
私は合演に4年間とも携わる事ができてとても幸せな人だと思いました。
九州バンドフェア(大学番外編その2)
上に挙げた合演。これは九州内の大学の選抜メンバーで構成される演奏会。
合演の全国バージョンといえるのが「バンドフェア」なのです。
全日本学生吹奏楽連盟という組織の中に九州大学吹奏楽連盟が加盟しています。(加盟しているのは東京・東海・関西・九州の大学吹奏楽連盟)
その全日本学生吹奏楽連盟に加盟している大学は、連盟主催の行事に参加できます。うちの大学は加盟している。
で、全日本学生吹奏楽連盟の最大行事が「バンドフェア」。
4年周期で九州・関西・東海・東京で開催。
大学2年のとき、九州でバンドフェアが開催される事となって、シンフォニックステージがなんとレスピーギの「ローマの祭」全曲!!
私だけでなく誰でも1度は演奏してみたいと思うであろう大曲であります。
全国各地の学生と触れ合える、そして何と言っても「ローマの祭」が弾ける。意気込み十分で応募用紙に書き込み、運良くメンバーに選ばれました。
博多駅に楽器を担いで集合。コントラバスのメンバーは4人。私、合演で共演した4年生の方、大阪から来られた4年生の方、福大の友人。
このメンバーの中で私紅一点ございました。
メンバーは全国大会金賞常連校出身者が殆ど!しかも大学も全国大会常連!という、もう楽器ではエリートコースを歩んでいる方々ばかり・・・。
緊張の中合宿所へのバスに乗り込んだら、まあ関西パワーに圧倒!爆笑しっぱなしで緊張は何処へやら・・・。
合宿所はもう本当にもう特訓の毎日でございました。
本当に大曲でしかも難曲ですから。ご飯はいつもコンバスパートで食べてましたね。仲が良かったな。
合奏はピリピリしているかなと思うでしょ?ゼ〜ンゼン違う!!
毎日だましが行われておりました。しかも関西のメンバーが濃くて、最終日には指揮者の方を「タブー」で全裸にしてしまいました!!
私はそのダイナミックなアクションとボンバーなヘアスタイル、見た目と実際とのギャップ(?)で他大学の方にすぐ覚えられたらしく、いっぱい友達になりました。
そして福岡サンパレスで本番。
本当に名演だと思いました。たった1週間であの大曲を演奏できた。とっても濃い内容の1週間でした。
そしてあれだけ充実したメンバーのなかでの演奏は、これからそう経験しないかもしれない。
本当に貴重な経験でございました。
そしてこれから(一般編)
大学に入ってから、将来は教員の免許でもとって小さい頃からの夢だった教師になろうと思いました。
出身中学校に教育実習に行ってその希望をより強くしたのです。
でも、変わりました。きっかけは4年生の10月。河原泰則さんのコントラバスリサイタルを聞いたときのこと。
河原さんの音はこれまで聞いたコントラバスの音の中でもピッチが正確で、そして私の心に訴えかけるものがありました。
私もこういう音を出したい、河原さんのように感動できる音楽を作りたい。そしてお客さんを集めて演奏会をしたい。
では、どうすればそれはできるのか?まず先生にレッスンを受けて、正しいコントラバスの知識・技術を身につけることだと思いました。
そして、いろいろ悩んだ末、高校時代一時期考えたことがある留学をすることにしました。
お金を貯めて、私が求めている音楽がある国、ドイツへ。
できるだけ30歳になるまでには行きたい。若いうちに行った方がいいとみんなが言うし。
いろんなバイトをしながら今必死に貯金をしています。
音楽活動はというと、現在杉名さんが常任指揮をしていらっしゃる北九州交響吹奏楽団に所属しています。
毎週日曜日、いろんな世代の人と音楽を楽しんでいます。
ピアノ
私は生まれてから去年までピアノやオルガンなど鍵盤楽器を習った事がなかった。
私の小さい頃は音楽とは程遠い生活をしてて。前の家に引っ越した時、やっとお下がりで古いオルガンが来たけど習ったりせず、
「猫踏んじゃった」とかピアノを習ってる友達に簡単な曲を教えてもらってバラバラの運指で弾いたり。そんなものだった。
(多分このときに絶対音感が身に付いたんだと思うけど・・。)
2000年5月、ピアノを習い始めました。
将来のことを考えたら、やっぱりピアノが弾けないといけないしピアノが弾けたら作曲とかコードとかが分かるだろうから。
ピアノの先生は、うちのバイト先でピアノを火・金と弾いている河合先生。
私もおかんも(おかんは去年の頭まで同じバイト先のベーカリーでバイトしてた)河合さんとは大の仲良し。
河合さんのおうちはうちのじいちゃんの家から歩いて1,2分の所にあるのでじいちゃん・ばあちゃんも河合さんの事を知ってる。(もう、家族ぐるみですな。)
とっても面白く頼りがいのある先生。姉御肌。
初心者の私を時には冗談を交えながら分かりやすく教えてくれます。
レッスンはというと・・・、バリバリの基礎から練習してます。ハノン。
まだ1・2番をやっと弾けるようになったくらい。
あと、大人でピアノを習い始めた人のための簡単な曲集を応用でやってます。
レッスン後は学校のサークル会館の踊り場にある調律されてないピアノで練習してます。
最近仕事が忙しかったのでレッスンに行ってません。(ごめんなさい、河合さん。)
そろそろレッスンに行って勘を取り戻さないと。
毎年8月に発表会があるので、1度何か1曲発表会で弾けるようになりたい・・。
家で練習できたらもっといいな。
うちは団地だからアップライトでもかなりスペースをとられる。
ああ、デジタルピアノ(ピアノタッチのもの)で安いのがあればな・・・・。
コントラバスレッスン
2001年の3月からプロの先生にコントラバスレッスンを受ける事になりました。
コントラバスレッスンは、私のコントラバスを始めて12年間の夢でした。
いくら優れた教則本を見本にして練習しても、所詮独学。
やはりきちんと先生に見ていただかないと無意識で悪い癖が身についてしまい、
正しい演奏法とは程遠いものになっているかも・・と思ったからです。
しかし中・高時代は家庭の経済上の問題とか進学問題等が重なり、大学時代はサークル運営やバイトで時間をうまく作れず
ずっと受けていませんでした。
(公開レッスンはできる限り参加しましたけど。)
月日は流れ、今年になってやっと自分の時間を作れるようになり、
@身近で(遠くても福岡市内まで)レッスン出来ること
A基礎からじっくり見ていただける
B月に2回程度レッスンを受けたい
という条件を作って先生を探しました。
そして今レッスンしていただいている先生に出会いました。
先生はネット上でお世話になってるネット友達の先生で、その人の話を聞くと
私の条件を満たしてくださいそうだったので、先生にレッスンをお願いすることにしました。
突然「レッスンしてください!!」とメールを送ったんですが、先生は快く引き受けてくださり、メールを送った翌週から早速レッスンをしてくださいました。
とっても気さくでユーモアがある先生です。レッスンも面白い。
私はすぐ人見知りをして人前に出ると緊張するタチですが、先生の話ですぐに心が打ち解けました。
レッスンの内容も分かりやすく、丁寧で充実したものです。優しく説明してくれます。
レッスンの1時間があっという間に過ぎてしまいます。
これから先生の下でたくさん楽器について学びたいと思います!!頑張るぞ!
2002年1月14日、吉浦門下生の発表会に初参加しました。
サン=サーンスの象と小さなワルツという曲、2曲演奏。
思ったよりリラックスして楽しく演奏できた・・・かな。
コントラバスアンサンブル
私がHPを立ち上げて間もない2001年初春、掲示板にとある人が書き込みをしてきたのが事の始まりです。
とある人とは、現在掲示板ではほぼ常連になっているうっちゃん。
私は何も知らずにうっちゃんのHPにジャンプしました。
うっちゃんはコントラバス奏者の中では「超マニアックベーシスト」として知られてます。
コントラバスについて凄まじいほどの情報量と研究をしており、人脈もとてつもなく広い方。
私の全く知らない事ばかりで、もっとコントラバスについて詳しく知りたいと思い、
ここからうっちゃんとの交流を始めました。
ある日うっちゃんから5月にコントラバス6台とギター2台によるコンサートをやるとの情報を聞きました。
場所は神戸。遠いし交通費がかかると最初は行くまいかと思いましたが、
今までにない編成とアマチュアコントラバス奏者が世代・職業を超えて集まって1つの演奏会をやるなんて面白そうだと思い、
神戸は六甲アイランドまで聞きに行ってきました。
六甲アイランドで初めてうっちゃんをはじめコンサートに出演するメンバーとお会いしたのですが、とても初対面とは思えないくらい
凄く仲良くなりました。
演奏も今までオルケストラ・ド・コントラバスくらいしかコントラバスアンサンブルを生で聴いたことがないんですが、
とてもアットホームで演奏レベルも高く、素敵なアンサンブルだと思いました。
その後5月のコンサートメンバーを中心に「SCIASCIA ENSENBLE JAPAN」が結成。私もメンバーになりました。
SCHIASCIAとはイタリアのソロコントラバス奏者で「コントラバスの神様」ゲーリー・カーの弟子で友人でもある
ステファノ・シャシャ氏のことで、正式に彼の名前を使うことを許可されてます。
それから兄の結婚式や就職試験など私が関西に出向く際、メンバーは必ず集まってくれてレクをしてくれます。
弦や松脂などコントラバスのパーツやシャシャ氏の近況など、貴重な情報を得ることが出来ます。
皆本当にいい仲間達です。
2002年2月24日、SEJ始まって以来最大のイベント「コントラバスの祭典」が神戸市・垂水レバンテホールで行われました。
私のSEJイベント初参加です。
今回はコントラバス8人・ギター1人・ピアノ1人と大所帯で演奏。
楽器を担いで神戸まで初練習に参加したときのこと。いい演奏が出来るよう皆普段見せない厳しい顔で練習。
時には厳しい檄も飛ぶけれど、アンサンブルが出来ることが楽しくて仕方がありません。
コントラバスを始めて早12年、ずっとアンサンブルに参加したいという気持ちがありました。
中学校では1度だけ混成6重奏としてアンサンブルコンテストに出たことがありますが、それ以来
全くアンサンブルコンテストに出たことがありません。それから大学に入るまでアンサンブルに参加しませんでした。
アンサンブルコンテストが近づく秋になると、挙ってクラリネットやサックス、金管が集まってアンサンブルしているのを
横目に黙々と基礎練や曲練していました。
参加したいんだけど金管だと音質が違うしテューバの人数は足りてる、木管だと参加できる曲がないような気がして
そういうマイナスの気持ちが先走り、参加欲が引けてしまう・・・・。
そういう管楽器や打楽器の皆がアンサンブルをしている姿が凄く羨ましかった。
大学に入って部内アンコンでバリ・テューバの編成に混じってアンサンブルに参加しました。
久しぶりにアンサンブル出来る喜びを感じた。
そしてコントラバスのみでアンサンブルするとどうなるんだろう、て思いました。
その夢が実現でき、本当に嬉しくて嬉しくてたまりません。
そして本番。
ホールにたくさんのお客さんが来てくださり、いい緊張感を保ったまま演奏できました。
ヴォカリーズは途中演奏が飛んでパニクった部分があり凄く後悔した演奏でしたが、アンケートを見る限り印象がよかったようです。
これからもアンサンブルの楽しみをどんどん味わっていきたいな。