第2章 印象派、アール・ヌーヴォーとジャポニスム


☆印象派と浮世絵

 印象派の画家の中で、浮世絵と縁のなかった作家を探し出すのに苦労するほど、浮世絵の彼らへの影響力は強い。これまで述べたように19世紀初頭、既に『シノワズリー』という中国美術・工芸の造形表現に影響を受けたオリエンタリズムが西欧社会に浸透してきており、西欧の東洋に対するある種の美学が人々に行き渡っていた。その頃の日本の美術工芸品は西欧人の目にはどのように映っていたのであろうか。この時期の日本美術工芸は、中国と日本の美術の外見の類似によって、シノワズリーの大きな枠組みの中に入れられてしまった。
 ところが江戸時代の後期から明治維新にかけて浮世絵が大量にヨーロッパに渡り、これが芸術家やコレクターの目に留まり、衝撃を与えた。浮世絵というプリント・アートは中国や他のアジア諸国には見られない日本独特のユニークな木版画であり、その斬新な表現や技法が彼らに強い印象を与えた。また、1886年パリに出てきた当初金のないゴッホが、200点以上の浮世絵を所有していた、という記録から、この頃は浮世絵は極めて安価に手に入れられたと考えられる。
 それでは、なぜこれほどまでに浮世絵が西欧人に強い印象を与えたのであろうか。それは当時の行き詰った西欧美術の表現様式からみればわかる。
 その頃、ヨーロッパの美術、特にフランスはパリ芸術学校が金科玉条として教え、サロンで圧倒的な優勢を誇っていた新古典主義的アカデミズムに対して強い疑念が持たれ、これを美の唯一の基準とする判断に強力な異論が唱えられ、多くの有能な美術批評家が美の多様性を主張・実践しつつあった。当時のジャポニスムに関する論の執筆者やコレクターの多くは美術の上ではレアリスムの傾向を支持しており、当時のナポレオンV世に反対する共和主義者であった。先に挙げたシェノー氏の『パリの中の日本』の中で初期のコレクターとして登場する文筆家達(シャンフルリ−、フィリップ・ビュルティー、ザカリー・アストリュック、テオドール・デュレ・ゾラなど)は、シェノー氏自身を含め皆レアリスムについて論じていた人々で、コレクターとしては、芸術家の中では、マネ、ドガ、モネなど、印象派とその周辺にいた画家である。(注8)
 芸術家達は長い伝統的な表現法から抜け出せず美術・装飾芸術に深い危機感を抱き、斬新な表現を模索していた。印象派の画家達はこうした陰欝な芸術環境の中、古典は・バルビゾン派を経て、ようやく自然を、人体をありのままに輝かしく表現する手法を見出した。彼らが日本美術、特に浮世絵に深い関心を寄せ、多くの浮世絵を蒐集していた事はよく知られている。クロード・モネ、ヴァン・ゴッホ、ツールーズ・ロートレック、ポール・ゴーギャン、ジェームス・マックニール・ホイッスラー、エドゥアール・マネ、オーギュスト・ルノワール、ギュスターブ・クールベ、カミーユ・コロー、エミール・デュラン、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガ、と印象派を代表する作家達が浮世絵から強い影響を受けたことを自ら語り、美術批評家も彼らの作品の表現から浮世絵の影響を指摘している。

☆非対称(アシンメトリー)性

 これほどまでに西欧美術に影響を与えた日本美術の造形的魅力は具体的にどんなものであろうか。それは西欧美術では伝統的であったシンメトリ−を排除した日本の構図であろう。シェノー氏の『パリの中の日本』で、やはり日本美術の特徴として第一に「アシンメトリー(仏:asyme´trie)性」を挙げている。同時にフランス工芸美術に斬新な創造性が欠落しているのは、シンメトリーへの偏重であるとさえ公言している。左右不均衡の構図は余白を生み、動きを予感される形式にとらわれない形である。これには日本人の気取らない生活観に満ちた美意識があり、日本人の自然観が息づいているのである。
 シェノー氏は、更に日本美術の非対称の概念は単なる破調や自然を模した不均等ではなく、全体として統一(ユニティー)(注9)を希求した、より高次な調和への志向である、と主張している。印象派の画家達は、伝統的表現法から脱しようとしてたどり着いたのが補色による光と色彩の追求であり、その結果として筆使いの併置法や点描法を完成した。が、画面の構成法や構図は未だシンメトリー性から抜け切れなかった。 

☆印象派とジャポニスム

 マネやドガの中心をずらした構図について、既に多くの研究かが指摘する浮世絵の影響であることは、
   @それ以前のフランス絵画には見られなかったこと
   Aドガやマネが大量の浮世絵を収集していたこと
という事実からも類推することができる。ドガの一連の「踊り子」の瞬間をとらえた美や画面を断ち切る手法、人物と中心をずらした構図は当時の絵画としては異端であり、同時に動きや変化を予感できる魅力ある構図だった。
 ゴッホは弟テオに宛てた手紙の中で、「僕の仕事は皆多少日本の絵が基礎となっている」と述べている。ゴッホは浮世絵の透明な明るい色遣いに憧れ、自分の絵に取り入れるように工夫し、花を描く時、道に咲く可憐な花でも目を向ける日本人の自然に対する細やかな美意識を想起した、と記している。
 ロートレックやゴーギャンの平面的で隈取り主義(Cloisonnisme:クロワゾニズム)と呼ばれる輪郭線で囲み彩色する装飾的技法は、浮世絵や日本画の影響からだと指摘される。
 また印象派の代表的巨匠、ルノワールでさえも、1877年の印象派第三回展に出品した「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、「ブランコ」は色彩の扱い方に浮世絵の影響を自ら認めている。(注10)
 モネは、印象派の画家達が浮世絵の自然観に基づいた色彩に変化していることを指摘し、自身も風景画では広重の自然に対する印象と図式的帰結点融合が似ていると語り、常に広重に対する賛辞を公言したという。(注11)モネはまた、風景を描くために広大な土地を求め庭園を造り、多くの園丁を雇い、池には日本風の太鼓橋を作らせた。ここで晩年の大作「睡蓮」がつくられた。「睡蓮」の極端に横に長い構図は、日本の絵巻物の影響という説と屏風画の影響という説がある。 

☆近代デザイン思想 〜アール・ヌーヴォー〜

 美術雑誌『芸術の日本』の編者であるサミュエル・ビングは、1895年末「Art nouveau」(新しい芸術)と名づけられた、日本美術工芸人を中心に東洋美術を取り扱う画廊を、パリのプロヴァンス街に開店する。この画廊の名が後のアール・ヌーヴォーと呼ばれる由来である。
 今日、日本美術から影響を受けた十九世紀末のヨーロッパ装飾技術を一般に「アール・ヌーヴォー」という。シェレ、ロートレック、ミュシャ、ビアズリーなどBelle E´poque(ベル・エポック。仏語で「良き時代」の意。主に十九世紀末から二十世紀初頭にかけていう。)のポスター・書籍・絵画のほか宝飾品、工芸品、エミール・ガレやドーム・ナンシーらのガラス工芸、ラリックのガラス宝飾品、陶磁器、インテリア、家具、建築、衣装、舞台に至るまで広範囲な表現領域となっている。
 アール・ヌーヴォーはフランスをはじめイギリス、ドイツ、スペイン、ベルギー、イタリアとほぼヨーロッパ全域にまたがっており、名称も形式の各国まちまちである。
 例えば、フランスではアール・ヌーヴォーの他に流行したミュシャのポスターから”ミュシャ様式”だとか、曲がりくねった曲線から”スパゲティ様式”だとか呼ばれたことがあった。ドイツでは雑誌「ユーゲント」に因んで”ユーゲント・シュテイル(青春様式)”だとか、”さなだ虫様式”、”百合様式”、イタリアでは”リバティ様式(ロンドンのリバティ商会のブランド名から由来している)”、”花様式”、ベルギーの”鰻様式”など、主な名称だけで挙げてみると二十五にものぼるという。(注12)
 オーストリアはアール・ヌーヴォーは曲線の造形とは異なり、直線や幾何学的な携帯を多用した装飾美術運動「ゼセッション」(分離派)(注13)が主流となった。イギリスでもチャールズ、レニー、マッキントッシュらのグラスゴー派の家具を中心とする造形は直線様式だった。(注14)

☆アール・ヌーヴォーとジャポニスム

 こうして欧米の各地域で特徴ある造形のアール・ヌーヴォーが、これまであった美術工芸と同化し、開化したといえよう。いずれにしても概ね(おおむね)日本美術の表現様式にルーツを求める流動的で植物的な曲線模様、有機的な形体、アシンメトリーのレイアウト、印影を排除した平面的表現が渾然一体となり、全体として装飾的・抽象的な造形表現であるのが特徴的である。
 最近までアール・ヌーヴォーの造形表現はジャポニスムの影響を過小評価し、ケルト模様やロココ様式、ヨーロッパのアーツ・アンド・クラフツ運動(注15)の様式、あるいはヨーロッパの自然主義が互いに影響しあって生まれた様式であるという研究が大半を占めていた。そしてジャポニスムという日本美術の影響を否定する論文さえ見られた。
 アール・ヌーヴォーのガラス工芸研究の第一人者である由水常雄氏は、1970年代初めに京都の学会での討論を著した『ジャポニスムからアールヌーヴォーへ』(中公文庫・1993年)の中で、

 「(中略)、参加した日本の西欧美術史家のフランスの学者も美術史部門全ての人々が、アールヌーヴォーに日本の影響があり、エミール・ガレの作品に日本美術の投影を見出すことが出来るなどということは有り得ない、と激しく否定した。」

と述懐している。美術史上、アールヌーヴォーのジャポニスムによる影響が認められ、定説となったのはごく最近のことである。

☆応用美術の見直し

 これまでのヨーロッパには「大芸術」と「小芸術」という表現方法の違いによる差別があった。言い換えると、「大芸術」は「純粋芸術」、「小芸術」は「応用芸術」である。前者は絵画、彫刻、建築、素描など、後者は装飾美術や工芸などである。しかし、日本では芸術と技術は区別されていなかったし、「大芸術」小芸術」などという差別は存在しなかった。この差別をなくし、軽んじられた応用芸術の地位を高めようと、イギリス人ウィリアム・モリスが起こした「アーツ・アンド・クラフツ」運動が1880年代盛んになった。先に取り上げた日本美術専門雑誌『芸術の日本』の執筆にかかわった美術評論家の中にこの運動の担い手がいた。(ルイ・ゴンス、ヴィクトル・シャンピエ、S・ビングなど)彼らは『芸術の日本』の中で「純粋芸術」「応用芸術」などと馬鹿げた区別がないことを繰り返し述べている。
 このように応用美術は、1880年代以降ジャポニスムとの関わりで語られる事が多い。またこの頃、絵画の分野で活躍していた芸術家達が、多く参加する現象がみられる。特に印象派の次の世代であるナビ派の画家達が、意欲的にこのような分野の作品に制作し、ビングの店「アール・ヌーヴォー」が制作・販売に協力していたという。ナビ派に続いてアール・ヌーヴォーの芸術家も絵画だけでなく応用芸術の作品に積極的に参加していく。

☆ベル・エポックとポスター

 アール・ヌーヴォーの代表的な表現形体は、ポスターであろう。
 多色刷り石版印刷(リトグラフィー)の発明によって、1880年代以降盛んに作られるようになったポスターという新しい媒体は、街を飾る新しい芸術、応用芸術として人々に暖かく受け入れられた。その時代のパリは世紀末のよき時代、「ベル・エポック」であり、街の抽象的なヴィジュアルはポスターによって表された。
 これまで欧米人は絵画や彫刻など、いわゆる「純粋芸術」に終始していたが、ポスターの出現は初めての媒体でありジャポニスムとコンセプトが共通する芸術を日常生活に取り込む、新しい視点である。ジャポニスムの対象が日本人の日常生活に密着した生活用品(陶磁器、漆器、扇子、着物、刀剣など)であり、決して芸術の為に作られた用具ではない。ポスターも新聞などのメディア・ツールに過ぎない。
 「ポスターの父」と呼ばれるフランス人ジュール・シェレ(1836〜1932)は1853年、イギリスから最新の石版印刷機を導入し、オペレッタ「天国と地獄」の二色刷りのポスターを製作。彼はこれ以降意欲的にポスター制作に取り組む。彼はイギリスとアメリカの印刷術が作りだしたものを基礎として、色彩石版画の技術を芸術的に発展させた。シェレによって初期のポスターデザインの構成やデザイン・テクニックの基礎を築いた。注目させるためのタイトルのレイアウト、字間、行間の字配りなどの活字デザイン、配色法、画面の省略、強調、躍動感溢れるイラストなど、今日のグラフィック・デザインの基礎となっている。シェレのポスターは色彩の光度を利用し、宣伝効果のために多彩な明るい光を取り入れた。これとは対照的に色彩(黒を含む)を大きな広い面にまとめる事、つまり対象を単純化された抽象的形体で表現する芸術家が後に現れる。トゥルーズ・ロートレック(1864〜1901)とイギリスのジェームス・プライドとウィリアムス・ニコルソン(彼らは「ベッガースタッフ・ブラザーズ」の筆名で知られていた)がそうである。
 ロートレックは1889年にパリに開店したムーラン・ルージュ(注16)をテーマに制作したポスター(1891)は、シェレの作品と同じく評判となり、ポスター・デザインの地位を不動のものとした。ロートレック、プライド、ニコルソンの他、スイス出身のウジュ―ヌ・グラッセ(1841〜1917)、オーブリー・ビアズリー(1872〜1898)、アルフォーンス・ミュシャ(1860〜1936)など、傑出したポスター作家がいる。
 単純化された画面構成、大胆で今にも動き出しそうな構図、デフォルメされた対象、線画表現により平板化された描写と鮮やかな色彩、どれも浮世絵や『北斎漫画』から影響を受けたと思われる。事実、ロートレックは浮世絵の熱烈なファンであり、多くの浮世絵を蒐集していた。ロートレックの師であるドガも熱心な日本美術愛好家であり、その影響もあってロートレック自身も日本趣味にのめり込み、生涯日本へ旅することを夢に見ていたという。ロートレックは専らキャバレーの芸人や新刊文芸書、雑誌などのための仕事だけをしていた。(商品広告、それも大判の広告専門のベッガースタッフ・ブラザーズ」とは対照的)。
 挿絵画家でもありポスター・デザイナーでもあったグラッセは全面線画で縁取られたイラストレーションと窓枠状の様式化された装飾的処理、花飾りや罫線、装飾文字は浮世絵や江戸の装飾美術の影響であろう。グラッセは印刷技術の向上した十九世紀末、プリント・メディアの特性を熟知した上で装飾的書式デザインを開拓した。(もちろんグラフィック・デザインという分野ではW・モリスのケルムコット・プレス(注17)の装丁やタイポグラフィ(注18)エディトリアル・デザインの先駆的な実験や装飾美術の成果もあったが)。
 またイギリスでは、オブーリー・ビアズリーのアール・ヌーヴォー風の曲線と繊細なペン描画の挿絵が「アーサーの死」の発表により、一躍有名になった。そのカルト的表現はW・モリスを激怒させたという。力強い幾何学的な造形、象徴的にデフォルメされた人物表現がビアズリーの挿絵の特徴である。彼は「サロメ」の挿絵でも賛否両論の評価が出たが、わずか26歳で亡くなっている。
 「アール。ヌーヴォー様式」と同義語に扱われたポスター表現、それはアルフォーンス・ミュシャの表現である。十九世紀末、完成された構図、装飾的な技法、そして巧みに様式化された人物表現が彼の表現の特色である。
 こうしたポスター主導の曲線主義の応用美術・装飾美術はアメリカに渡り、ます・コミュニケーション時代に突入したアメリカの雑誌や書籍を飾った。

☆アール・ヌーヴォーにおけるガラス工芸 〜ナンシー派〜

 ところで、アール・ヌーヴォーが日本から影響を受けた様々な表現の中で、建築を除き日本の美術工芸品にみられなかった対象として、”ガラス工芸”が挙げられる。もちろん江戸時代、ガラス工芸は「びいどろ」として作られてはいたが、ヨーロッパへの輸出品には殆ど見られなかった。
 アール・ヌーヴォーの表現様式の特徴(植物的な曲線の有機的形体)が最も忠実に表現されているのが、フランス・ナンシー地方を拠点として活動した”ナンシー派”と呼ばれるエミール・ガレとドーム兄弟のガラス工芸である。
 エミール・ガレは作家であり、熱烈なジャポニザンであったエドモン・ド・ゴンクールのコレクションから影響を受け、日本の動植物のモティーフをガラス工芸に採り入れ新しい表現に挑戦した。また1880年代、高島北海との出会いも彼にとって更に日本美術へ傾倒を深めるきっかけとなる。
 ガレは生涯、様々なガラス表現の技法(注19)の実験と開発に終始している。多種多様な金属酸化物を混入した新しい色調の開拓だった。またエナメル彩色、金属箔の封入などの技法と動植物のモティーフの組み合わせによって、彼自身のガラス工芸を生み出した。ガレは北斎漫画など日本美術の写生的な描写に深い感銘を受け、また彼自身昆虫好きだった事も加わって、モティーフに蜻蛉・コウロギ・蝶・蛾を採り入れ、当時のヨーロッパには珍しい鯉・蟹・蛙・鶏なども採り入れられた。植物では桜・梅・菊・菖蒲・牡丹・撫子・百合・朝顔・女郎花・竹・松などと並び歯朶(しだ)や改装までモティーフとなった。
 同じナンシー市のガラス工芸作家でドーム兄弟がいる。兄オーギュスト、弟アントナン・ドームは1889年のパリ万国博覧会に出品したガレのガラス工芸から刺激を受け、ガラス工芸・ステンドグラス・金属工芸・家具を精力的に制作した。ドーム兄弟が自分の工房に工芸部門を設置、日本様式を取り入れたガラス工芸を作り、成功を収めた。
 ナンシー派と呼ばれる作家にはガレ、ドーム兄弟の他に七宝工芸のムージャン兄弟、家具のルイ・マジョレル、ウジューヌ・ヴァラン、画家のヴィクトル・プルーヴェ、建築家のエミール・アンドレらがおり、日本美術工芸と表現性に深く関わっていた。
 また宝飾品ではルネ・ラリックが日本美術の造形要素をモティーフとして採り入れ、更に彼独自の女性像を加え、幻想的なネックレスやブローチなどの宝飾品を作り上げた。左右非対称の構成に日本の自然のモティーフと植物紋様、更に女性の頭部や裸体とガラス、七宝と宝飾素材を組み合わせた彼のガラス工芸は、後の欧米のジュエリー・デザインに影響を及ぼす事になる。
 ラリックはガレと同じく日本的なモティーフに意匠デザインの根源を求め、薊(あざみ)・野葡萄・蜂・蝶・蟷螂(かまきり)・燕などを宝飾品のデザインの主題に選んだ。彼のガラス工芸・宝飾品は円熟期である1920年代に入ると、端正な造形と抽象性が加わり、「アール・デコ様式」に変わっていく。

☆モードとジャポニスム

 最近ジャポニスムが欧米のもーどに及ぼした影響についての検証が次々と報告されている。それまでのジャポニスムとモードとの関係は後期印象派のゴッホ、マネ、ルノワール、ロートレック、ホイッスラー、ティソなどの画家達が浮世絵風のキモノ姿のモデルやキモノを背景にした異国趣味の画風により、モードのジャポニスムが論じられたに過ぎない。最も早くキモノに目をつけ、絵画にジャポニスムを取り入れたのはホイッスラーで1865年「金屏風」「薔薇と銀 時期の国の姫君」でいずれもモデルにキモノを着せ、団扇などを組み合わせることによって日本趣味を盛り上げている。単に浮世絵や扇子などがモティーフの背景として取り上げられている例を挙げると、マネの「エミール・ゾラの肖像」「ナナ」「婦人と扇」、ティソの「浴する日本娘」をはじめ、モネの「ラ・ジャポネーズ」、ルノワールの「エリオ夫人」、ゴッホの「タンギー親爺の肖像」などかなりの数がある。印象派の画家達とジャポニスムの関係が論じられる時、キモノや織物のモードが中心となることはなかった。
 一般にジャポニスムに登場するキモノは19世紀中頃に登場した小袖である。光沢のある絹の生地に刺繍・染めの入った豪華な着物の構造は、それまでの人工的で機能性に乏しくコルセットで縛られていた西洋の衣装とは違い、女性の体の曲線に沿って女性をより美しく見せるドレスとして、それまでの西欧のファッションには見られなかった衣装であった。
 もっとも男性用キモノは女性用よりも早く17世紀ごろからヨーロッパに渡っていて、「ヤポンセ・ロッケン」という綿入りの室内用ローブとして用いられていたが、1867年パリ万博に当時の幕府が小袖を出展、以後キモノは美術工芸品と共に多くヨーロッパに渡った。万国会場の日本館では、キモノを着た日本人女性がお茶で接待をし、大いに人気を博した。西洋人の異国趣味もあいまって、キモノはたちまちコレクターや知識人に知れ渡り、次第にヨーロッパのファッションに浸透していった。
 日本の美術工芸品や生活用品から、織物・キモノ・帯など服飾用品に共通する日本の紋様や紋章が西欧に日本の持つエキゾチズムをかきたて、ジャポニスムの引き金になった。キモノ・ブームの前触れとして、日本の染色デザイン、テキスタイルの洗練された日本人の美意識が彼らに衝撃を与えた。1860年以降の万国博覧会を契機に、日本の江戸小紋はリバティ商会やババーニの服地の売れ筋になり、アメリカではシアーズのカタログの目玉商品のデザインとなった。
 こうしてジャポニスムにおけるキモノは欧米のファッションの転機の起爆剤となった。日本のいかに緩やかに体を包むか、という考え方の違いが、欧米の衣服と身体の関係を見直す契機となった。

☆ジャポニスムの終焉

 1910年代に入ると、あれほど熱烈であった日本熱も次第に冷めてくる。その理由として、一つは20世紀に入り産業化が急速に進み、工業製品が日常生活の隅から隅まで浸透してきた社会構造の中で、アール・ヌーヴォーの唯美な思潮は時代から淘汰されたことが挙げられる。科学技術が急速に発展し、近代の機能主義・合理主義が絶対なものとなり、機能主義が社会の主流を占めたため、アール・ヌーヴォー美意識はもはや時代的な思潮にそぐわなくなってしまったのである。所詮、職人の手作りの高価なアール・ヌーヴォーの装飾美術工芸品の購買層は貴族やブルジョワの資産階級に限定されていた。こうした富裕層は1920年代、アール・ヌーヴォーからアール・デコへ次第に興味を移してゆく。
 また、ジャポニスムの本家である日本自体、近代国家を目指し、欧米と肩を並べるほどの帝国主義的国家に成長し、欧米にとって日本の存在が脅威となっており、その植民地政策や軍備強化等が既に排日運動さえ起きていた状況下では、日本趣味や日本ブームは続かなかったであろう。


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