第1章 ジャポニスム概論


☆ジャポニスムとは

 ジャポニスム(Japonisume・仏語)(注2)という用語の意は、少なくとも美術史関係者の間では、ほぼ共通の理解が成立しているように思われる。ジャポニスムとは、『日本の文化・様式の影響を受けたヨーロッパの美術・工芸や文化の表現方法」を指す。もう少し掘り下げると、

@日本美術・工芸の研究や愛好
A芸術・文化に於ける日本からの影響

と2つの意味に分けられる。(注3)
 この言葉はシノワズリー(Chinoiserie,中国趣味の意)と同じように使われるジャポネズリー(Japoneserie)とは異なる。ジャポネズリーは日本的なモチーフを取り込むが、それが文物や風俗へのエキゾティックな関心にとどまっているのに対しジャポニスムは、日本美術からヒントを得て造形のさまざまなレベルにおいて(絵画、彫刻、工芸から建築、写真にまで範囲は及んでいる。)新しい視覚表現を追及したものである。(注4)
 近年、ジャポネズリーという用語は次第に使われなくなってきた。ジャポニスムはジャポネズリーを含み込む広い意味で定着してきたからである。

☆ジャポニスムの起源 〜シノワズリーからジャポニスムへ〜

 ジャポニスムの歴史を紐解いてみると、それ以前に流行したシノワズリーと大変関係が深い。
 ヨーロッパでは16世紀の大航海時代以来、王侯・貴族、財を成した承認等の裕福な層は、異文化のえきぞ地図無を求め中国・朝鮮・日本から多くの陶磁器を輸入していた。当時のヨーロッパの製陶技術では品質の高い東洋の陶磁器と同じものは作れず、輸入に頼るしかなかった。この陶磁器の表面に描かれた共通したパターンや紋様、山水画などの風景、人物の絵にみる異文化の香りに満ちたオリエンタリズムが彼らを魅了した。
 17世紀になるとヨーロッパ列国の海外(特にアジア諸国)に対する植民地政策は、同時にヨーロッパの伝統文化様式とは異質な視覚表現の魅力を発掘させる契機となる。これは単に異文化への憧憬、えちぞちず無にとどまらずオリエンタリズムと名手ヨーロッパ列国の富裕層の人々の心を引きつけた。こうしてVOC(オランダ東インド会社)などを通じ、陶磁器やその他の美術工芸品、絹織物、家具什器、香辛料、茶等が大量に流れ込んだ。特にヨーロッパの様式とは造形・表現性友の異なった東洋の自然観に基づいた中国の形・色・材料の扱い方は、徐々にヨーロッパの伝統様式に影響を与えることとなった。
 18世紀になると、この中国趣味はシノワズリー(Chinoiserie)と呼ばれるようになる。絵画・陶磁器・絹織物・工芸品・家具・調度品ばかりでなく、庭園づくりやインテリア全般に及ぶほどの流行となった。これまでのヨーロッパの伝統的形態には見られなかった首の長い花瓶が好まれ、競って蒐集され,館のインテリアは中国趣味一色となった。
 ところが、このシノワズリーの中身を調べると、その中には少なからず日本から輸出された陶磁器や漆器などが含まれている。この当時のヨーロッパに渡った中国の美術工芸品の量から比べれば、日本の美術工芸品は微々たるものだった。
 しかし、1644年、清国が中国を制覇、その後政治的混乱が続いたため、オランダの東インド会社(VOC)は1656年から1729年までの71年間、茶や陶磁器など輸入できなくなった。急遽VOCはその代替として日本からこれらを調達するため、長崎・出島から伊万里(有田)焼を大量に買い入れた。これ以降、多くの日本美術工芸品がヨーロッパ向けに輸出され、これが元でシノワズリーにかわってヨーロッパに日本文化を愛好する思潮のジャポニスムを引き起こす契機となった。

☆日本の情報

 日本は16世紀中ごろ、すなわち1853年に中国船に乗った3人のポルトガル人が種子島に漂着したときから、西欧世界との実際の接触が始まる。その後フランシスコ・ザビエルを中心とするポルトガルの宣教師が日本にやって来る。そして、これらのイエズス会士らによって本国に報告を送ったため、ヨーロッパは日本についての情報を現地から直接得ることが出来た。それ以後、日本と西欧との関係は、キリスト教が禁止され、1639年以降徳川幕府によるほぼ完全な「鎖国」政策が行われるようになった後でも、途絶えることなく続いた。というのは、この鎖国の時期でも長崎・出島に商館を構えることを許された唯一の西欧人、オランダ人によって細々とながら商品や、さらには思想の交流も双方の強い好奇心によって熱心に行われていた。
 このようにして、19世紀中頃の日本海国以前に、既に日本は西欧社会に知られていた。もちろんその知識は断片的であり、時に空想的ではあったが、その知識がほぼ西欧全域に及んでいた。例えば、アイルランドの教会僧院長であるジョナサン・スウィフトが1726年、『ガリバー旅行記』のなかで、ガリバー船長が江戸で天皇より拝謁を賜っている模様を、かなり正確に記述している。彼は生涯おそらく日本に渡ったことがなかったと思われるが、19世紀前半までに公刊されたいくつもの旅行記や日本紹介の書物を元に、記述したのであろう。日本紹介の書物の中で特に重要なものは、P・F・シーボルトが1832年以降刊行した本『ニッポンの記録』が挙げられる。これは図版のいくつかを『北斎漫画』から引用した挿絵入りだったという。(注5) 
 日本に対するこのような関心は、芸術の世界に及ぶ。三年間の日本滞在で得た知識を織り交ぜた大著『The Capital of Tycoon』(邦題『大君の君』)の著者であるSir Retherford Alcockは、とりわけ建築、工芸、素描に関してかなりの関心を示し、これが1863年に出版されて15年後、今度は芸術のみに関して1巻を上梓した。

☆万国博覧会のジャポニスム

 またオルコック氏は1862年、第4回ロンドン万博において日本滞在中に収集した日本の美術工芸品を展示した。それは甲冑、刀槍、書画骨董をはじめ、男女の衣服、火事装束、提灯、蓑笠、油衣、傘、履物、陶器、漆器、銅鉄器、その他諸雑品、小間物、そして浮世絵など、計614点にのぼる。ちょうどこの万博を幕府の遣欧使節団が訪れた。芳賀徹著『大君の使節』(中央公論社、1968)によると、彼ら日本人の目には、「ガラクタの寄せ集めの感を免れない、文字通り玉石混交の陳列だった」ようだが、また「日本物産が大量にヨーロッパ人一般の目に示された、史上最初の催し」でもあった。いずれにしてもこの機会に、ヨーロッパとりわけイギリスとフランスに《日本趣味》と呼ばれる日本美術愛好の熱が急速に広まっていった。
 1867年、セーヌ河畔のシャン・ド・マルスで開かれたパリ万国博覧会が開催される頃には、日本熱はますます高まっていった。この時徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩が正式に参加し、出品されたのは銀・象牙細工、青銅器、磁器、玻璃器、蒔絵、漆器、日本刀、水晶玉、日本女性の肖像、人形、布地、着物、袱紗、掛け軸、版画など日本の生活・文化に密着したものを示した。浮世絵は、女絵50枚、風景画50枚、計100点が出展されたこの女絵に描かれていたのは官女、武家女、江戸遊女、田舎娘など各階層にわたる女性であったという。その人気の高さから閉会後はほとんど売却された。’67年、評論家Zacharie・Astruc(ザカリ・アストリュック)氏が、日刊紙『L'ETANDARD』(エタンダール)の文化欄に”美術、東方の帝国”と題して日本及び日本美術に対する熱い想いを寄せた。以下はその部分の引用である。

 「最初の日本の浮世絵の到着は、真の衝撃をもたらした。(中略)その後様々な形で貴重な見本が我々の所に届けられた。愛好家たちは、ここから 四十里も離れたところにある世界を喚起する産物が微笑みかけるように並ぶ市を決して逃さなかった。
最もつつましい絵冊子ですら高値で競りにかけられた。人々は商人の到着を待ち伏せて、あちこちの店を駆け回った。花瓶や布地や着物しか見つけられない時のなんという失望!しかし着物だって貴重なものなのだ。繊細な彫金細工を施した箱、彫刻を施した玩具、まばゆいばかりの模様で飾られた漆器、動物や花や鳥の風変わりなブロンズが法外な値段で飛ぶように売れた。素描はとりわけ画家や愛好者たちに適していた。」(注7)

 こうして、欧米人の日本への興味は次第に過激になり、日本美術の研究も急速に進められていった。

☆近代西欧に於ける日本美術研究

 この時期の日本美術研究で最も早いものは、1878年フランス人Ernest・Cheneau(エルネスト・シェノー)氏の”Le Japon à Paris"(ル・ジャポン・ア・パリ。邦題『パリのなかの日本』)である。この論文は、同年行われたパリ万国博覧会の際に美術史の専門誌『Gazet des Beaox-Arts』(ガゼット・デ・ボザール)に載せたものである。この中でシェノー氏は日本美術の特質を述べ、絶賛している。特に北斎漫画全十四編を引き合いに出し、西洋にない日本の美術表現の平面性やアシンメトリー性を強調している。
 また、S・Bing(ビング)編の雑誌『Le Japon Artistique』(ル・ジャポン・アルティスティック。邦題『芸術の日本』)も挙げられる。この雑誌は1888〜1891年までの3年間、月刊で計36巻が出版された日本美術研究に関する雑誌で、毎号日本美術に関する論文と図版を載せている。当時日本美術に対する最高の見識を持った美術批評家をはじめとする、各分野の専門家が毎月浮世絵や水墨画をはじめ、陶磁器、染織から刀剣、印籠まで研究された。そして日本美術がとりわけ工芸の分野で高い芸術性を持っていたことを繰り返し語っている。この雑誌は人々に豊富な情報を与え、また多岐にわたる複製もゴッホをはじめとして広く人々に日本美術を教える機会を与えた。今日、『芸術の日本』は日本文化研究の第一級の資料となっている。


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